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「職業、動く。」海外事例リサーチ
シンガポールの「スキルズフューチャー」に見る、 ミドル世代のリスキル
人口約570万人の都市国家、シンガポール。以前からエコノミック・ディベロップメント・ボード(経済開発庁)などの機関を通じて、外資を積極的に誘致してきました。しかし、2020年に入り事態は一変。コロナ危機により、これまで経済成長を押し上げていた外国人人材がシンガポールを去っていきました。それに伴い、外国からの投資を含めた経済が縮小し、企業はリストラを開始しました。今シンガポールでは、外国人人材を呼び戻すのではなく、自国民のスキルアップ、とりわけ40~50代のミドル世代のスキルの学び直し、すなわち「リスキル」に注力しています。

本稿では、スキルズフューチャーというシンガポール政府によるキャリアサポート制度の概要や成立の背景と、コロナ危機における制度の活用についてまとめました。また、失業を経験し、スキルズフューチャーを利用して転職を目指す2名のミドル世代のインタビューを紹介します。
2021.03.16

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INDEX

【スキルズフューチャーの概要】仕組みと成立の背景

スキルズフューチャーとは、2015年に始まった政府のキャリアサポート制度の総称で、シンガポール国民の生涯学習とスキル獲得の支援を目的としています。スキルズフューチャーのウェブサイト*1では、「シンガポールの国民が個々の潜在能力を、年齢に関係なく、生涯を通じて最大まで伸ばせるよう、機会を提供する国家的運動」と説明されています。スキルズフューチャーの対象は学生向け、アーリーキャリア(若手の社会人)向け、シニア世代向けなど、もともとさまざまなコースがありましたが、コロナ危機でリストラを経験したミドル世代が増加したため、ミドル世代向けのコースが今、特に注目されています。

スキルズフューチャーで特徴的なのが「スキルズフューチャー・クレジット」という仕組みです。バックグラウンドや業種・職種に関係なく、シンガポール国民もしくは永住権保持者であれば誰でも、政府から期間ごとや対象者ごとに1人当たり500シンガポールドル(約39,000円)がスキルズフューチャー・クレジットとして支給され、それを使ってスキルズフューチャーの受講料を支払うことができます。2020年には支援がさらに強化され、40~60歳のシンガポール国民もしくは永住権保持者は、追加のスキルズフューチャー・クレジットを受け取ることが可能となりました*2。受講できるコースには、シンガポール国内のものもあれば、国外のオンライン学習プラットフォームが提供するものもあり、選択肢は豊富です。

スキルズフューチャーの2019/2020年次報告書*3によると、2019年度の利用者は50万人、利用企業は14,000社となり、それぞれ2018年度の数値を超えています。コロナ危機の前から、シンガポールではスキルズフューチャーを活用してスキル獲得を目指す人が増えていたことがわかります。




*1 SkillsFuture(https://www.skillsfuture.gov.sg/)


*2 SkillsFuture Creditについて。(https://www.skillsfuture.gov.sg/credit)


*3 「SkillsFuture Annual Report 2019/2020」より。(https://www.ssg-wsg.gov.sg/content/dam/ssg-wsg/ssgwsg/about/annual-reports/ssg-ar-2019-(final).pdf)
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【コロナ危機への対応】制度の拡充と企業との連携

外資を優遇する政府方針により法人税が低く設定されている*4ため、これまでシンガポールは、外資系企業の東南アジアにおける「ハブ」としての機能を担ってきました。ただし、最高経営者や上級管理職は国外にある本社からの出向者が多いため、大きな資本の企業が非常に多い割には、マネジメントなどのスキルをもつシンガポール国民の数は限られていました。さらに、金融やテクノロジー分野といった特定の業界への人気の偏りや、少子高齢化による人材不足*5という課題が以前から指摘されていました。

シンガポールでコロナ危機が人びとの生活に暗い影を落とし始めたのは、春節で中国本土からの観光客や訪問者が増加する2020年1月末。4月7日からは、ロックダウン(シンガポールでは「サーキット・ブレーカー」と呼ばれる部分的ロックダウン)が開始されました。コロナ危機を理由に本国の事業に集中し始めた外資系企業からの投資が減ったことにより、シンガポールではリストラが進み、失業率は上昇*6。特にミドル世代がこの影響を受けており、50代以上の失業率は他の世代に比べて上昇しました。加えて、多くの外国人人材がシンガポールを去り、これまで外国人に依存していた労働力とスキルをシンガポール国民で補う必要が出てきたのです。

このような背景から、ミドル世代が業界を越えた転職を実現するための手段として、スキルズフューチャーが注目を集めるようになりました。シンガポール政府は、2020年5月に「シンガポール・ユナイテッド・ジョブズ・アンド・スキルズ・パッケージ」というプログラムのもと、「4万件の職を提供する」という計画を発表*7。より高度なスキル習得のサポートを拡充するために、スキルズフューチャーの内容をアップデートし、ミドル世代向けに「ミッドキャリア・パスウェイ・プログラム」を新たに追加しました。



*4 シンガポール内国歳入庁が発表する法人税率より。(https://www.iras.gov.sg/irashome/Quick-Links/Tax-Rates/Corporate-Tax-Rates/)

*5 2030年にはシンガポールの人口の3人に1人が65歳以上になると予想されている。(https://www.clc.gov.sg/docs/default-source/urban-solutions/urb-sol-iss-16-pdfs/13_case_study-singapore-ageing-together.pdf)

*6 シンガポール人材開発省が発表する失業率より。(https://stats.mom.gov.sg/Pages/UnemploymentTimeSeries.aspx)

*7 2020年5月26日にSGUnited Jobs and Skills Packageが発表された。(https://www.mom.gov.sg/newsroom/press-releases/2020/0526-sgunited-jobs-and-skills-package)

企業と連携したミッドキャリア・パスウェイ・プログラム

ミッドキャリア・パスウェイ・プログラムで興味深いのは、政府と民間企業の連携です。例えばIBMでは、既存のオンライン学習プラットフォーム「IBM Skills Academy(スキルズアカデミー)」に、「i.am-vitalize(アイ・アム・バイタライズ)」という6か月間のフルタイムトレーニング・プログラムを追加しました*8。このプログラムは、ポストコロナ時代に必要とされるであろうAIやサイバー・セキュリティに関するスキルを、ミドル世代の人びとに獲得してもらうことを目的としています。企業への国からの支援金を差し引くと、受講費は1人当たり500シンガポールドルで、国から受け取るスキルズフューチャー・クレジットをこれに充てることができます。

IBM シンガポールによると、プログラムは開始直後から人気が高く、2021年3月3日 時点で720名の登録がありました。マネージング・ディレクターのマーティン・チー氏は、「i.am-vitalizeは、ミドル世代の人びとが、現在もっている専門性に加えて、業界が必要とする新しいデジタルスキルを得られるようにデザインされている」と語っています*9



*8 IBMが提供するミッドキャリア・パスウェイ・プログラム「i.am-vitalize」のウェブサイト(https://webibmcourse.mybluemix.net/SGUnitedProgramme)

*9 SkillsFutureのウェブサイトに掲載されたプレスリリースより。(https://www.ssg-wsg.gov.sg/news-and-announcements/22_Sep_2020.html)
インタビュー①

【インタビュー①】スキルズフューチャー利用者:ダレン・デビッドさん

アプレンティスシップ制度を利用
職業:ファイナンシャル・コントローラー(財務管理者)

コロナ危機が変えた、日常

デビッドさん(47歳、インタビュー当時)はリチウムバッテリーを扱う日系企業で、外資投資誘致担当として働いていました。しかし、コロナ危機により外資が激減したため失業。勤務先から解雇された当時は、非常にショックだったと言います。「2020年に学んだことは、とにかく謙遜する気持ちです。今までのシンガポールは外資ありきでした。それが突然激減し、私のようなミドル世代や、企業の中でも経営に近いポジションにいたような人たちが、大勢失業したのです。まったく想像できませんでした」とデビッドさんは語ります。

スキルズフューチャーを利用して、スキルのアップデート

デビッドさんは失業したあと、自国のために役立ちたいという思いから、失業したシンガポール国民と永住権保持者を対象に求人のあったPCR検査の仕事に応募し、空港などの検査会場で働きました。これにより賃金を得ることができたため、生活に困窮するということはありませんでした。しかし、データマネジメント関連の仕事から数か月間離れたことで、「時代に取り残されてしまう」と感じるようになったと言います。

そこでデビッドさんは、スキルズフューチャーのカウンセラーに相談し、「データマネジメント」のコースを取ることにしました。実は、デビッドさんはコロナ危機の前にもスキルズフューチャーを利用しており、そのときは「データ・ビジュアライゼーション」のコースを修了しています。今回はエクセル、データの集計、統計、分析など、デビッドさんがすでにもっているスキルをアップデートすることを目的として、オンライン学習プラットフォームで約2週間のコースを受講しました。コースは順調に修了したものの、他の受講生や講師とのやり取りがなかったため、少し事務的に感じた面もあるそうです。

スキルを生かした再就職を目指して

デビッドさんの周りには、彼と同じような境遇の友人が何人もいます。「今までとは異なり、ミドル世代や役員レベル、専門職でも失業する人が多い」と感じています。デビッドさんは「今回の経験は人生観についていろいろと考えさせられるものでした」と振り返ると同時に、「たくさんの人材が同じ情報にアクセスし、ツールを使いこなせるようになってしまったので、自分のスキルアップが不可欠だ」と考えるようになったのだそうです。

デビッドさんは職を失ったあと、146社に履歴書を送りましたが、「返事が来たのは約1割だった」と言います。ただでさえ年齢が高いと転職が難しい上に、景気悪化により求職者が増えたことで、求人のあるポジションに対して、必要とされる以上の経験やスキルをもつ応募者が増え、競争がさらに激しくなっていると感じています。

現在、デビッドさんは企業のコロナ対策のアドバイザーとして、COVID-19対策関連の仕事を続けています。「PCR検査チームのときよりはこれまでの経験を生かせていますが、もっと長期的に働ける仕事に就きたいですね」と語ります。デビッドさんは、以前のように調査や分析をするオペレーション関連の仕事を、今も探し続けています。

インタビュー②

【インタビュー②】スキルズフューチャー利用者:ユエン・ホー・ファンさん

職業:就職活動中、多国籍投資銀行でインターン

若い世代に後れを感じ始めたとき、起こったパンデミック

54歳(インタビュー当時)のファンさんは、経験豊富なベテランのエンジニア。しかしある時期を境に、最先端のテクノロジーに関して、若い世代から後れを取っていると感じるようになりました。そこにコロナ危機が訪れます。ファンさんは今まで蓄積してきた経験と新しいスキルをうまく組み合わせることで、新しい仕事の機会を得ることができないかと考え、スキルズフューチャーを利用することにしました。

ファンさんはもともと金融系企業でソフトウェアの品質管理の仕事をしていました。ファンさんは「品質管理の経験は十分にあるものの、クラウドやAI、そしてブロックチェーンやアナリティクスの知識が自分に欠けているということには気付いていました」と言います。そこで彼が目を付けたのがフィンテック領域でした。「シンガポールでも、最近はフィンテックがはやり言葉になっていますが、以前はそれが何なのかよく知りませんでした。」しかし、ファンさんはフィンテックの可能性を知って、今までの自分の経験と新しい知識を掛け合わせることで、新しい職種の仕事に就けるのではないかと感じたそうです。

自分に足りないスキルを求めて

ファンさんが参加したのは、フィンテックの基礎を学び、またアナリティクスのスキルも身に付けることができる2か月間のプログラムでした。シンガポール政府が提供するプログラムで、シンガポールを代表する銀行やテック企業が共同で運営していたそうです。ファンさんは、「内容はかなりきつかった。夜中まで宿題をする毎日だった」と語ります。ただ、プログラム開始の時点ですでに失業していたので、濃密な2か月間のプログラムにもきちんとコミットメントできたようです。また、本来であれば約7,000シンガポールドル(約54万円)ほどかかるプログラムでしたが、90%は政府からの援助があり、残りはスキルズフューチャー・クレジットで賄うことができたため、ファンさんの金銭的負担は一切ありませんでした。

プログラム参加中、シンガポール国立大学の講師によるオンライン授業を受講し、プログラミング、コーディング、データアナリティクスを学びました。講師は全員フルタイムで働いている人たちだったことに、ファンさんは驚いたと言います。「授業中にわからないことがあるとチャットアプリでメールを送れば、すぐ返事が来て、バーチャル・オフィスに招待され、わかるまで丁寧に教えてくれたり、大学の学生を紹介してくれたりしました」

現在のファンさんと今後の展望

ファンさんは、スキルズフューチャーのプログラムを修了したあと、ある多国籍投資銀行のインターンシッププログラムに参加することが決定し、10か月間はそこでさらなるスキルアップを目指すそうです。ファンさんはこのプログラムの第4期生で、第3期までの参加者の中には、そのままこの銀行に就職した人もいるそうです。ファンさんに「その進路を望みますか」と尋ねたところ、「そうですね、それは良いシナリオです。でも他のテック企業にも私が学んだスキルと今までのスキルを生かせるポジションがある、もしくはつくることもできるのでは、と思っています」と野心的な答えが返ってきました。

ファンさんはスキルズフューチャーで得たスキルがとても役に立っていると振り返ります。そして、「生涯学び続けることを忘れてはいけません。将来を見据える先見性を身に付け、少しずつで良いので、何か新しいことを学ぶことは止めてはいけない」と語りました。

最後に

日本でも「生涯学習」はよく話題になりますが、具体的に実践している人や、それを自分のキャリア拡張のきっかけとして活用している人は、決して多数とは言えません。シンガポールでは、コロナ危機により変化を迫られたという側面もありますが、スキルズフューチャーに関するリサーチやインタビューから、新しいスキルを学習することに前向きな人びとの存在と、それを積極的に支援する政府や企業の姿勢がわかりました。

一方で、新しいスキルを磨いたとしても、年齢が上がるほど再就職が難しい、という事実も依然として存在します。ミドル世代のリスキルを促すスキルズフューチャーが、そのような壁を打破するきっかけになるのか。また、日本と同様に、シンガポールが抱える少子高齢化という社会課題をどのように解決していくのか、今後も注目していきたいと思います。

Text by 中川紗佑里・馬籠太郎



中川紗佑里 なかがわ・さゆり

電通総研プロデューサー

奈良県生まれ。ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ卒。2020年2月より電通総研。世界価値観調査、コロナ危機下の価値観に関する国際調査を担当。主な活動テーマは、ジェンダー、ウェルビーイング、気候変動。

奈良県生まれ。ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ卒。2020年2月より電通総研。世界価値観調査、コロナ危機下の価値観に関する国際調査を担当。主な活動テーマは、ジェンダー、ウェルビーイング、気候変動。

馬籠太郎 まごめ・たろう

電通総研プロデューサー

1982年鹿児島県生まれ。複数の広告代理店を経て、電通デジタルでSNS広告運用を中心にツールのディレクションなどをおこなう。2020年2月より電通総研。主な活動テーマは、データに基づく次世代社会の分析。

1982年鹿児島県生まれ。複数の広告代理店を経て、電通デジタルでSNS広告運用を中心にツールのディレクションなどをおこなう。2020年2月より電通総研。主な活動テーマは、データに基づく次世代社会の分析。