「男性学」の多様な視点
多賀先生は「男性学・男性性研究」がご専門とのことですが、読者の方の中には、「男性学」という言葉を初めて聞く方もいるかと思います。先生が考える、男性学の定義を教えていただけますか。
大きく2つの側面から定義できると思います。1つは、フェミニズムや女性学からの問題提起を受けて「男性」の立場からジェンダー問題を自分自身の問題として捉え直す、いわば「男性の当事者学」というものです。
もう1つは、「男性」というものを、社会的につくられた性別、つまりジェンダーの視点から批判的に捉え直す研究というものです。この定義だと、研究する人が「男性」かどうかは問われません。最近の英語圏では、こうした研究を「男性学」ではなく「男性性研究」(masculinities)と呼んでいます。
私は、これら両方の意味を込めて自分の専門を「男性学・男性性研究」と呼んでいますが、今日は「男性学」を、これら両方の側面を含む意味で使いたいと思います。
ときどき、男性学とは「男はつらい」と訴えるだけの学問であるかのようにみなして、男性の特権を問い直していないなどと批判する声を聞きますが、それは男性学の多様な側面の一部しか見ていないことからくる誤解です。それぞれの論者によって、強調する視点の濃淡はあると思いますが、男性学全体としては、多様な視点から男性のあり方を多角的にとらえようとしていますし、私自身もそうしたバランスを意識しながらこれまで研究してきました。
男性学の視点は、大きく次の3つに分けられると考えています。

1つは、フェミニズムや女性学による問題提起を受け止めて、これまでの男性のあり方を問い直す視点。男性から女性への差別・暴力の問題や、男性の特権性、つまり男として「下駄を履かされている」側面などをどう受け止め、それらをどう解決していくか、といった視点です。
2つ目は、窮屈な「男らしさ」が男性たちに生きづらさや心身の不健康をもたらしている側面に注目し、そこからの解放を模索する視点です。
3つ目は、男性内の多様性や不平等への視点。一言で男性といっても、いろいろな境遇の人がいます。「男らしく」あることが全く苦にならず、男であるというだけで女性よりもずいぶん優遇されている男性もいれば、「男らしさ」の期待に押しつぶされそうになりながら、日々の生活さえままならない男性もいます※1。
私は最近「有害な男らしさ」(トキシック・マスキュリニティ)という言葉を知り衝撃を受けたのですが、初めて聞く方に向けて説明をいただけますか。
「有害な男らしさ」という言葉は、伝統的な男性の文化的規範が、女性や社会、そして男性自身にとっても害を及ぼす側面を強調して英語圏で使われるようになりました。2019年のニューヨークタイムズの記事※2では、「有害な男らしさ」の特徴を3つにまとめています。1つ目が、感情の抑圧または苦悩の隠蔽、2つ目が表面的なたくましさの維持、3つ目が力の指標としての暴力です。
これまでにも、「伝統的な男らしさ」がもつさまざまな問題が指摘されてきましたが、そうした言い方だと、これまでの男のあり方や男らしさすべてが悪いというふうに受け取られかねない。そこで、「有害でない男らしさもある」という含みを残して、男性たちに「よき男として生きる」よう態度変容や文化の変革を促すために、男らしさの中でも特に有害な部分を指して「有害な男らしさ」と呼ぶようになった、と私は理解しています。
※1 多賀太「男性学・男性性研究の視点と方法 : ジェンダーポリティクスと理論的射程の拡張」 (http://doi.org/10.32286/00023841)
※2 What Is Toxic Masculinity? (https://www.nytimes.com/2019/01/22/us/toxic-masculinity.html)