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「クオリティ・オブ・ソサエティ」レポート
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毎年掲げるテーマに即した、有識者との対談、調査結果、海外事例、キーワードなどがまとめられています。
クリスチャン・ポラック(Christian POLAK)氏
「ジャポニチュード(Japonitude)」~孤高の島・日本が持ち続ける特性
日仏交流史を研究するクリスチャン・ポラック(Christian POLAK)氏は1971年から52年間日本に住み、経営コンサルタントとして本田宗一郎氏など日本を代表する実業家たちと深い交流を持ちました。約40年前に『ジャポニチュード(Japonitude)~フランスの知性がみた日本の深層構造』を著しましたが、それから日本に変化はあったのでしょうか?

聞き手:日塔史 取材協力:永田公彦
2023.07.26

# ジャポニチュード

# 次世代


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クリスチャン・ポラック氏の写真

「日本」を研究しはじめた理由
~漢字の文化圏への関心

ポラックさんはフランスご出身ですが、どのようなきっかけで日仏交流史を研究することになったのでしょうか?

ヨーロッパ人として東洋のことを考えると、まず出てくるのは中国です。中学生の時から中国の文明に関する深い興味を、特に漢字に対して持っていました。うちはポーランド系でもロシア系でもフランス系でもあり、家族でたくさんの言葉を使っていました。学校ではドイツ語も英語も勉強して、言語に対して大変関心がありました。そしてヨーロッパ以外の文化・文明というと中国だと教えられていたのです。

高校を卒業し、1968年パリ国立東洋語学校(現・INALCO)に入学しました。ちょうどパリは学生革命※1の時期で中国を応援するパンフレットがあり、その中で毛沢東を目にしました。その時に中国が共産主義であり、私が見ていたのは1949年以前の中国だったことを認識したのです。東ポーランド系の父はボリシェビキがポーランドの東を侵略した時※2にフランスに亡命したので、私は共産主義に対して反感がありました。

「中国は研究できない。では一番中国に近い文化、国はどこだろうか?」と考えると韓国、ベトナムそして日本ですよね。ベトナムと韓国では漢字はすでに使われていなくて、漢字を使っている国は日本だけです。それで日本語を勉強することにしました。だから偶然です。

※1 パリの学生革命:「五月革命」「五月危機」と呼ばれる。1968年5月にパリの大学生が政府の教育政策に対する不満から暴動を起こし、それが当時のシャルル・ド・ゴール大統領政権に反対する大きな市民運動に発展した。当時のフランスでは毛沢東の書籍「毛主席語録」が左派知識人たちに受け入れられており、当時の学生運動において毛沢東が一つのアイコンとなっていた。
※2 ボリシェビキによるポーランド侵略:1919-1921年頃に起こり、「ポーランド・ボリシェビキ戦争」「ポーランド・ソビエト戦争」と呼ばれる。
https://www.gov.pl/web/nippon/--2

偶然ではあるものの、漢字の文化圏に興味があったということですね。

そうです。パリ国立東洋語学校は1971年に名前を変えてINALCO(フランス国立東洋言語文化大学)になりました。その時、素晴らしい先生に出会います。森有正先生※3の「日本の考え」という講座を熱心に受講しました。森先生と親しくなって、授業以外の時も一緒に食事をしました。日本の文化を森先生が教えてくれたのです。それで私は「ぜひ日本に留学しよう」と思いました。

森先生が私のために推薦状を書いてくださり、日本国費留学生の試験に合格しました。まず早稲田大学の語学教育研究所の日本語学科で日本語を磨きました。日本語も漢文も読めたのですが、当時はほとんど日本語を話せません。聞くのも難しかったので大体1年間、一生懸命勉強しました。

同時に日本の国立大学の入学試験を受けました。森先生に相談すると「あなたは一橋大学の法学部の、ある先生のところで勉強したほうがいい」と。その先生は細谷千博先生※4。日本の外交史の中ではトップの方です。そして面倒見がよくゼミの人数は少ない。ただ勉強しないと大変です。ガリ勉にならないといけない(笑)、という感じですね。

日本語で試験を受けたのですか?

はい、皆さんと同じです。修士課程から博士課程まで進みました。研究テーマは日仏外交関係史で、両国の外務省の資料を使いながら博士論文を書きました。一橋大学の中で日本人と触れ合い、フランス人と全く違うことが分かりました。私はその違いについて何かを書きたいと思っていました。

当時フランスでは兵役義務があったのですが、私は在日フランス大使館の広報部と文化部に1年半勤めることでそれに代えることができました。そこで文化参事官だったティエリ・ド・ボッセ(Thierry de Beaucé)さん※5に出会います。

※3 森有正(1911-1976年):フランス思想、哲学、文学の研究者。政治家・森有礼の孫。東京帝国大学文学部を卒業、第一高等学校教授を経て東京大学助教授となり、1950年にフランスに留学した。その後東京大学を辞職しパリに定住。パリ国立東洋語学校、INALCO(フランス国立東洋言語文化大学)にて日本語や日本文化、日本思想を教えた。
※4 細谷千博(1920-2011年):外交史を専門とする国際政治学者。東京帝国大学法学部卒業。1962年に一橋大学教授となり国際関係論、日本外交史などを教えた。1985年紫綬褒章受章。
※5 ティエリ・ド・ボッセ(Thierry de Beaucé、1943-2022年):フランスの外交官、作家。フランス国立行政学院(ENA)卒。ジャック・シャバン・デルマス内閣の官房秘書官を経て、1976-1978年に在日フランス大使館の文化参事官を務める。1977年にトウィッケナム(Twickenham )のペンネームで『ヨーロッパ病』(サイマル出版会)を発表し、1979年のポラック氏との共著『ジャポニチュード』に至る。
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「ジャポニチュード(Japonitude)」とは何か
~孤高の島の両面性

ド・ボッセさんは1979年にフランスで出版された『ジャポニチュード』(邦訳は1980年、サイマル出版会)の共著者の方ですね。

はい。ぜひ日本について本を書きたいけれど私は日本のことしか知らず、フランスのことをあまり知らない。そこでド・ボッセさんがフランスやヨーロッパの考え方を、私が日本の考え方を担当して一緒にこの本を書いたのです。

「ジャポニチュード(Japonitude)」という言葉は、ド・ボッセさんから出ました。ド・ボッセさんは外交官として大変有名な方で『ヨーロッパ病』など、いろんな本を書いていました。アフリカ人のレオポール・サンゴール※6という哲学者にも会っています。この方が「ネグリチュード(négritude)」※7を提唱しました。「ネグル(nègre)」というのは当時フランス語の「黒人」という意味で、「黒人のあり方」という考え方です。アフリカの文明・文化が植民地化されて破壊されると、サンゴールさんが「これはいけない。戦争ではなく国際交流でアフリカを世界に認識してもらわなければならない」と思い、「ネグリチュード」という言葉をつくりました。ド・ボッセさんがこれを知っていたのです。

そうなると、黒人にとって「ネグリチュード」のように「ジャポニチュード」は「国際社会での日本のあり方」を指すのでしょうか?それはどのような「あり方」ですか。

ド・ボッセさんが私に説明していたのは、日本が「島国の文明」であることです。「孤高の島」で、特殊な文化、特殊な社会構造、特殊な考え方が出来上がりました。もちろん昔から中国からの影響が大きいのですが、島国として中国のことを全て理解し日本的にしている、ということです。それの上に神道という他の国で見られない宗教があります。正確には宗教であるかはまた別問題ですがここでは宗教ということにしておきます。「日本では特別な文明があり、それはジャポニチュードではないか」というド・ボッセさんの提案でした。私はそれに大賛成でした。

※6 レオポール・セダール・サンゴール(Léopold Sédar Senghor、1906-2001年):セネガルの政治家、哲学者、詩人。セネガル初代大統領。パリに留学中の1934年にエメ・セゼールなどと雑誌「黒人学生」を刊行。
※7 ネグリチュード(négritude):1930年代、フランス領植民地からパリに来ていたサンゴールやセゼールなどの黒人知識人たちが起こした文学・文化運動。

確かに書籍『ジャポニチュード』のフランス語の原題は『孤高の島』(L'île absolue)です。その意味は、日本が「外部と交流をしない島」ということでしょうか?

そうです。交流しないことをずっと続けていて今も変わりません。「交流」とは色々な波を出して受けることです。しかし日本が外国に波を出すことはほとんどない。日本は平安時代、仏教の空海の時代から、西からたくさんの波を受けた。中国の文明の波。韓国の文明の波。インドからも南からも。ヨーロッパからも。人間も入りました。北からはアイヌ文明もありました。しかし結局、日本はずっと19世紀まではほとんど外国に波を出さなかったということです。

文化・思想的な意味で一方的に波を受け続けて吸収するばかりだった、ということでしょうか。受け入れるけど、何も出さない?

はい。そのような「孤高の島」で文明が出来上がり変化しません。しかし19世紀の後半、その日本が知らずに外国に波を出した。意図的ではなく。これが最初のジャポニズム(japonisme)※8です。浮世絵など日本人が評価していない美術がフランスでは評価されて、あとからやっと自分でも「そうですか」と気がつく感じです。

明治維新は内乱で、国民が望んだことではありません。一番上の社会階級の間の争いなので、構造自体は変わらないのです。そしてその頃から現在の政権まで存続していて、構造が変わりません。これが「孤高の島」ということです。柱がもう出来上がっている。外を少しぐらい変えているだけです。これが日本です。

※8 ジャポニズム(japonisme):19世紀中盤に日本の鎖国政策が廃止となり、パリやロンドンの万国博覧会で日本の美術工芸品が紹介されたことなどをきっかけにして、西欧で日本の美術やデザインが大流行したことを指す。1872年にフランスの美術評論家のフィリップ・ブルティが雑誌で「jàponisme」の連載をしたとされる。

『ジャポニチュード』を書いた40年前から考えても、変わっていないのでしょうか?

全く変わっておりません。特にコロナウイルスで、もっと鎖国になりました。2年半ぐらい日本は厳しく外国人を制限しました。日本人は日本を出ても帰れますが、日本に住む外国人は日本に帰れない。だから私は2年半、日本から出られなかった。捕虜にされた気分です。私は日本で暮らして一生懸命日本のためにと思ってやってきたのに、とても悲しくなりました。

ただ「ジャポニチュード」に戻ると、「もっとすごいジャポニチュードになっている」ということになります(笑)。素晴らしい文化であるということは間違いない。ただ外国人の場がなく、今は労働者として使われるだけです。5年間だけ契約してあとは帰ってくださいと言われてしまいます※9

40年前に見つけ出した日本の特性は変わらず、逆に強化されている。変化が激しい時代といわれるので、日本ももう少し変わったのだと思っていました。

1970年代80年代は少し日本社会が開いた感じがありました。日本人が出国ビザなしでどこでも旅行し、外国人も日本に自由に旅行できるようになり、鎖国を少し緩めた感じです。1990年代に入るとバブルが崩壊して日本は声を出さなくなり、外国のお願いを承諾するようになりました。それも鎖国を緩めたといえるかもしれません。

しかしコロナの鎖国で戦前の時代に戻った感じがします。物理的ではなく、精神的に非常に厳しくなりました。例えば外国人に対する態度。コロナという病気が外国から来たので、外国人を排除しようとしました。そして日本に住んでいる外国人までもが排除されたのです。

でもこれが「ジャポニチュード」です。「ジャポニチュード」の良い面は、素晴らしい文化を持っている。でも半面では外国人を排除する。

※9 日本の法律(出入国管理及び難民認定法)の定めでは在留資格の期間が活動別で異なるが、「外交」「高度専門職2号」「永住者」などの特例を除くと上限を5年以内としている項目が多数を占めている。
https://www.moj.go.jp/isa/applications/guide/qaq5.html

ポラックさんの悲しみを事実として受け止めたいです。それを理解するためにもお伺いしたいのですが、原題の『孤高の島』と邦題の『ジャポニチュード』は同じものなのでしょうか?表裏一体で、「表」は素晴らしい文化を一貫して持ち続ける「ジャポニチュード」であり、「裏」から見ると外国人を排除する「孤高の島」だと。

同じです。私は52年日本に住んでいて人生の中で一番長いです。フランスは20年なので倍以上日本に住んでいます。日本の社会に溶け込んだといえますが、ただ顔が外国人で、帰化してもいつまでも外国人です。ですから日本に対する外からのイメージは、非常に良い面も悪い面もあります。まずはこの厳しい話を理解していただきたいです。

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グループの中に生きている日本
~「甘えの構造」と集団主義

日本に対する外からのイメージでよくいわれるのは「日本は不思議な国」、つまり「理解しにくい」というものです。これは本当なのでしょうか?

日本人は一般的に「自分の国、自分の文明は外国人には絶対理解できない」と信じています。信じているから「交流するのは無理」「利用するだけで結構です」ということになります。

「日本は一方的に波を受けるばかり」という先ほどのお話に通じます。

人間構造の問題で、「甘えの構造」※10から出発します。お母さんとの関係。その後は社会、会社との関係。教育の中では、なるべく集団の中の一員であるということにする。一人で自分の自己を表せないようにして、発展させない教育であるということです。結果、日本人が自分のことを忘れています。

※10 甘えの構造:日本の精神科医である土居健郎(1920-2009年)が1971年に出版した『「甘え」の構造』で提示した日本人論。1950年にアメリカに留学した際に文化的な衝撃を受け、「甘える」という言葉が日本語独特であることを発見した。そこから「甘え」が日本人の精神構造のみならず社会構造を理解するための鍵概念となるというもの。

個で色々なものを背負わないから自分のことを知る必要がない、ということでしょうか?

そういうことです。グループの中に生きていて、グループの中に存在する。グループの外には存在しない。そのような構造です。集団主義ということですね。「甘えの構造」から集団主義に行きます。これがよいのは「グループでは非常に強い」ということです。ただ一人だけでは非常に弱い。これは決して悪いということではなく特徴であるということを申し上げたいです。

だからこのシステムが変わらないために日本の社会が変わらないのです。そして「孤高の島」「ジャポニチュード」は、ずーっと続く。

それが日本の強さにもなっているし、一方では何かの問題の原因となっている。そのことを私たちの多くはあまり自覚していないかもしれません。

個人的に認識していないというのは、個がほとんどないからだと思います。だからグループの中で動く。会社の外側のところでは、家族があってそれもグループです。公務員の人たちは、公務員の勤めている場所のためにグループの中で一生懸命やっている。

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「ジャポニズム」と「ジャポニチュード」は全く異なる

先ほど「ジャポニズム」のお話も出ました。言葉としては「ジャポニチュード」と似た響きがありますが、関連はありますか?

全然違います。今フランスでは「第二のジャポニズム」といえる状況です。いわゆる漫画(ブーム)のことです。日本の出版社は「外国人は日本の漫画を読まない」と思っていました。しかし結局フランス人が日本に来て、自分で漫画を翻訳していきました。最初のジャポニズムと同じで意図的ではありません。「ジャポニチュード」ではないんです。「外国の方々が日本について興味を持った」ということです。日本人が一生懸命紹介したのではありません。

日本人が日本の文化を紹介したものでは、日本政府が2018年にフランスで開催した「Japonismes 2018」※11があります。全フランスで約300ものイベントが開催され、フランス人はどんどん見に行きました。しかし私には成功とは思えません。日本人の顔が出ていないからです。フランスで行われたことには非常に感謝しています。ただ日本の顔が見えないのです。紹介した日本文化はもうみんな知っていました。日本人の魂、日本人の顔を見たかったのです。

※11 Japonismes 2018: 2018年7月から2019年2月に開催された「ジャポニスム2018:響きあう魂(Japonismes 2018 : les âmes en résonnance)」。観客動員数は約353万人を記録した。2016年5月の日仏首脳会談で日仏友好160周年に当たる2018年にパリを中心に実施することで合意し、100以上の会場において展覧会や舞台公演ほか、さまざまな日本の文化・芸術を紹介した。

書籍『ジャポニチュード』で、ポラックさんは日本を「仮面の帝国」と表現しています※12。日本人は顔を出したくないのでしょうか?

個がないから出せないんです。出せる人たちは日本から出て行ってしまう。残念ながら日本のエリートは自分の考え方を示したいし自分の研究もしたいので外国に行きます。最近のノーベル賞の日本の受賞者はアメリカの日本人です※13。外国にいったん行ってしまうと、自分の個が発展したのでもう日本に戻れない。

良い面は、日本の社会の中では「ルールを批判しない」ということさえ守れば、自由に何でもできます。

その自由度は、むしろ海外に比べて日本は高いということでしょうか?

そのように思います。私の経験ですが留学生として2つの荷物だけで来て、50年たって東京の日本橋のビルに自分の会社があり、今ここにいるのは日本の社会が私のことを応援してくれたからです。

※12 仮面の帝国:『ジャポニチュード』79頁「日本は巻きこまれることを避けるために建前を重んずる、仮面の社会である(バルトはそこに表徴の帝国をみた。私はむしろ仮面の帝国を見る。〔以下略〕)」の箇所。フランスの哲学者ロラン・バルト(Roland Barthes、1915-1980年)が1970年に日本を論じた著作『表徴の帝国(L'Empire des signes)』に対比している。
※13 アメリカの日本人ノーベル賞受賞者:2021年の真鍋淑郎氏(物理学)、2014年の中村修二氏(物理学)、2008年の南部陽一郎氏(物理学)が米国籍、2010年の根岸英一氏(化学)、2008年の下村脩氏(化学)が受賞時に米国の大学に所属していた。
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日本が国際社会を生きるために
~若者に、勇気と希望を

強固な「ジャポニチュード」があったので、日本は存続してきた。しかしこれからもそうだとは限りません。もし「ジャポニチュード」が変わらない場合、国際社会で日本が生きていくためには、どのようにしたらよいと思いますか?

日本の食料自給率は30%台でどんどん下がっています※14。だから「孤高の島」を続けられません。どのように「孤高の島」を保って国際社会と付き合えるかは大きなジレンマです。日本は外国抜きで生きられません。しかし外国との関係でまず出てくるのは利害関係で、これは他の国も同じです。私は「国益」という言葉が嫌いですが、日本だけではなくフランスも言っています。しかしこれからの国際時代はますますお互いに協力しなければならないのに国益の話が出てくると逆になります。「ジャポニチュード」の悪い面はここです。

外国との関係というのは国と国の間の関係です。でもその関係はまず人間で、一般的に教育が重要です。残念ながら日本では外国について興味が薄れていて、若者が留学したくないのは大きな問題です。私が大学の講座で「どんな希望を持っていますか」と学生に聞くと「日本に対する希望はありません」と答えます。考えてみてください。これは逆にしなければいけない。つまり若者のために一生懸命支援しなければいけないのです。

日本の社会の中でたくさんの問題が起きている。でも若者たちが勇気と希望を持っていれば解決できます。1987年の竹下登内閣の時、政府の少子化問題に関する勉強会でフランスの少子化対策を紹介しました。その概念は「子どもは家族の資産ではない」というものです。子どもは家族の宝ではなくて「国の宝」です。だからフランスでは生まれてから社会人になるまで全て国が支援します。

※14 日本の食料自給率:農林水産省によると2021年度の食料自給率は生産額ベースでは63%だが、カロリーベースだと38%となっている。

「人」ということでは、ポラックさんは経営コンサルタントとして本田宗一郎氏※15や井深大氏※16と親交が深かったと伺っています。

本田さんと井深さんが出てきたのは戦後です。お二人はよく日本の行政と衝突していました。それは個が強かったからです。個としてやりたいことがあって勇気と希望を持って夢を絶対実現したいと思っていました。勇気と希望そして目的がありました。日本人の若者には、同じく勇気・希望・目的を持ってほしい。失敗してもずっと続けてほしい。いずれ失敗ではなくて勝利します。本田さんと井深さんがそうでしたので。

私のようなただの留学生がどうしてこのように素晴らしい方々に恵まれたのか。それはお二人が個を持っている日本人だったからです。交流できる。年齢や国は関係ないのです。「一緒に何かやろう」と希望が生まれます。私はお二人と一緒に世界を歩きました。楽しくて楽しくてたまらない。だから結局、私がお付き合いしてきた日本人は個を持っている方たちです。自分の意見があってお互いに議論できる。今は私が教えてきた学生たちがそうです。

まさしく希望があるお話です。

私のゼミでは「あなたは就活しているけど目的を持っていないのですか?」と聞きます。学生は「日本の社会では難しい」と答えますが、「いやいや目的があれば、勇気と希望があればやりなさい」と伝えます。私の学生の中で5人がスタートアップを設立して私の会社よりも大きくなっています(笑)。日本の若者は素晴らしいです。ただきちんとした教育をしなければいけません。大変ですし時間を取られますが、素晴らしいことが起きますよ。若者を絶対応援しなければいけません。私は今でも関係を続けて会っています。

※15 本田宗一郎(1906-1991年):1946年に静岡県浜松市で本田技術研究所(後の本田技研工業)を創業。1973年まで社長を務めた。
※16 井深大(1908-1997年):1946年に盛田昭夫氏らと共に東京都日本橋で東京通信工業(後のソニー)を創業。1950-1971年に社長を務めた。本田氏と井深氏は公私にわたる深い交遊があり、井深氏は本田氏が死去した1991年に『わが友 本田宗一郎』(ごま書房)を出版した。

本日お話を伺って日本が国際社会で生きていくためには、「ジャポニチュード」を自覚した上で、外と交流する必要があると思いました。受け取るだけではなく、波を送らないと自分そのものを認識できないのだと。

簡単に言えば、高校時代に交換留学することです。例えばフランスの町の高校と日本の町の高校で1年間を交換するのです。私も日本に来る前には中学時代にドイツへ交換留学をしましたが、素晴らしい体験になりました。

「交換」というところが重要で、受け取るだけではなくて波を送る。「議論する」もそうですよね。日本の教育では、先生からの講義を一方的に受け取ることが多かった。そこもやはり「交換」をしていく。先生と生徒ではなく、人と人、個人と個人として「交換」していく。

それがとても大事です。現在日本の高校では学校単位での交換留学はないと思いますが※17、フランスとドイツの間では盛んです。日本の場合、韓国や中国との間の交換留学もよいと思いますし、どの国とでもよいのです。日本の社会のために交換留学は必要で国際マインドが生まれます。なぜなら学生たちが、向こうに行った時に日本を説明することになります。だから留学する前には、日本のことをよく勉強しなければいけない。日本人であるということを認識するわけです。一人の日本人で、グループの中の日本人でないと認識できるのです。とても大事なことで、これが教育です。

※17 文部科学省は2013年より「トビタテ!留学JAPAN」で高校生を対象とした留学支援を実施している。学校単位での制度化(単位認定)は、一般社団法人海外留学協議会・上奥由和理事長によると「海外の高校で取得した単位は1学年分36単位を上限に認めることは可能ですが、認めるか認めないかは学校長に一任されているのが現状」とのこと。

Text by Fumito Nitto
Photographs by Masaharu Hatta



クリスチャン・ポラック Christian POLAK

株式会社セリク代表取締役社長

1950年フランス生まれ。1971年に来日して以来、現在まで日本で幕末期の日仏交流史を研究する。一橋大学大学院法学研究科博士課程修了。一橋大学客員教授、明治大学客員教授等を歴任。フランス国家功労勲章とレジオン・ドヌール(Légion d'honneur)勲章受章。2004年、文部科学省より日仏交流活動に貢献した功績を表彰される。

1950年フランス生まれ。1971年に来日して以来、現在まで日本で幕末期の日仏交流史を研究する。一橋大学大学院法学研究科博士課程修了。一橋大学客員教授、明治大学客員教授等を歴任。フランス国家功労勲章とレジオン・ドヌール(Légion d'honneur)勲章受章。2004年、文部科学省より日仏交流活動に貢献した功績を表彰される。

日塔史 にっとう・ふみと

電通総研プロデューサー/研究員

山形県生まれ。2020年2月より電通総研。現在の活動テーマは「次世代メディアとコミュニケーション」。経済学・経営学のバックグラウンドと、マスメディア・デジタルメディア・テクノロジー開発での実務経験を活かして、マクロ視点からコミュニケーションのメガシフトを研究する。

山形県生まれ。2020年2月より電通総研。現在の活動テーマは「次世代メディアとコミュニケーション」。経済学・経営学のバックグラウンドと、マスメディア・デジタルメディア・テクノロジー開発での実務経験を活かして、マクロ視点からコミュニケーションのメガシフトを研究する。